「タマ公」の心 ゆるキャラに


【「桜タマ吉」を囲み、笑顔がこぼれる亀山さん(右)と今井さん(五泉市村松乙の村松商工会で)】




「これがダントツだね」。専門学校生に募って選考会に並んだ40種類のキャラクター案の中で、誰もがすぐにピンと来た。頭に桜の花を飾り、すげがさにかっぱをまとった旅がらすのようないでたち。何と言っても地元が誇る忠犬タマ公をモチーフにしている。2011年11月、五泉市の村松商工会青年部でゆるキャラ「桜タマ吉」が生まれた瞬間だ。



桜タマ吉を作るきっかけは東日本大震災だった。震災直後の同年4月、青年部のメンバーは義援金を集めようと街頭に立った。しかし、当時は全国で義援金集めを名目とした詐欺が横行。活動中に警察官に呼び止められてしまう事態も起こった。「慈善活動なのに……。商工会青年部のイメージが定着していれば」



そこで浮かんだのがブームになりつつあった「ゆるキャラ」だった。眼鏡店の亀山拓永さん(40)らが「青年部だと一目で分かるキャラクターがあれば、怪しまれないんじゃないか」と発案。専門学校生が手がけたイラストで桜タマ吉は形になった。



キャラクターの誕生物語として、愛犬タマ吉と再び会いたいと願った青年の思いに、村松の人々に愛された「忠犬タマ公」と「桜」、そして城下町であったこの地を象徴する「武士」の三つの魂が宿ったという設定も加わった。

     


桜タマ吉の「独り立ち」は早かった。パン屋がキャラをかたどった商品を作ったところ、これが思いのほか売れたのだ。隣で店を構えていた靴カバン店の大島康博さん(60)がデザインしたトートバッグは4日間で50枚が完売。大島さんは「タマ吉はデザインしやすいし、自分たちでいいものを作れば売るのも楽しいでしょ」と、頭の中は新作の構想でいっぱいだ。



大工職人は桜タマ吉の焼き印を入れた木札を神社に売り込み、服飾店はタオルやマグカップ、ガソリンスタンドは手ぬぐいや扇子を作った。本業との境なく、デザインや品質にこだわった新商品が、商店街を中心にあちこちの店頭に並んだ。


 「タマ吉が村松の町をつないで町が明るくなったね」。そんな声はどこからともなく聞こえた。

     

 「生まれ育ったところだから地元にいたい。僕たちが後を継いでいくことで町が続いていくんだと思う」



桜タマ吉のブームを機に始まった青年部と桜タマ吉による市立愛宕小での出前授業。昨年秋、写真館の2代目、今井将人さん(36)は「地元でなぜ仕事をするのか」をテーマに語った。



県内の別の写真館に勤めた経歴を持つ今井さん。青年部のメンバーの多くも一度は外に飛び出した時期があり、村松に戻ることへの迷いや不安は尽きない。幼い頃は、客入りを見込んで夜遅くまで開いていた商店街も、午後6時には暗くなる。後継ぎがおらずシャッターが閉まった店を見るたびに、自分たちの使命を感じずにはいられなかった。


「何十年も前から未来がこうなってしまうことは分かっていたのに、誰も手を打てなかった」。悔しさがこみ上げる一方、「ここで頑張らないと、子供たちに未来を残してやれない」と自らを奮い立たせている。



死んだ愛犬にもう一度会いたいと願った青年の思いが、ピンチを諦めずに主人を助けた忠犬タマ公の魂に宿り、「桜タマ吉」となって再び現れた――。ゆるキャラに込められた諦めない心は、子供たちに、そして、村松を支える人々の胸に響いている。

 (米盛菜美)




【村松地域の人々が保存してきた忠犬タマ公像(五泉市立愛宕小前で)】




五泉市の旧村松町地域(当時は川内村)の猟師の家で飼われていた雌の猟犬。1934年2月、山鳥の猟の最中に雪崩に巻き込まれた飼い主を助けるため、両足を血だらけにして雪の中から掘り起こしたとされる。2年後にも雪崩に押し流された飼い主を捜し出し、当時は「ハチ公以上の忠犬」と新聞などで大きく報じられた。県内にはJR新潟駅など5か所に銅像がある。